2016年2月20日土曜日

レビュー/RE/PLAY Dance Editサイト(2016年2月20日掲載) by Ng Yi-Sheng

レビューが、RE/PLAY Dance Editサイトに掲載されました。
「Catch the show if you can!」という挑発的な見出しで始まる長文のレビュー。以下、オンラインでご覧いただけます。

Thoughts on RE/PLAY Dance Edit by Ng Yi-Sheng 
Catch the show if you can!  

https://replay2016.wordpress.com/2016/02/20/thoughts-on-replay-dance-edit-by-ng-yi-sheng/


RE/PLAY Dance Editに対する所感:
「このショーを、観られるものなら観てみろ!」
Ng Yi-Sheng〈ライター〉/和訳(翻訳:齋藤梨津子)

ストラヴィンスキーが1913年に『春の祭典』を初演した時、観客が暴動を起こしたことをご存じだろうか。

昨夜、私もちょうどそれと同じことをしたくなった。真面目な話、『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』が4回目か5回目に差し掛かった時には、客席のパイプ椅子を投げ飛ばし、ケーブルを引っこ抜き、床の照明に火をつけてやろうかと思った。

私は『RE/PLAY Dance Edit』を何の予備知識もなしに観に来ていたのだ。(シアターワークスの)Tay Tongから招待券を貰った。観に行かない理由はない。多田淳之介が本作で反復というコンセプトに取り組んでいることも何も、私は知らなかった。あったのは、コミュニティ・センターでやる以外、大体いつも奇妙な作品を上演しているシアターワークスのことだから、何かしら妙なものを見せられるだろうという心構えだけだった。公演前、私は批評家のMayo Martinに「この作品はダンスといえるものだろうか、それともダンスではないダンス(dance bukan dance)になるのだろうか・・・」と話していた(bukanはマレー語の否定語)。

パンフレットのコメントで多田は、シンガポール人は夜中の12時になるまでクラブで踊ることを拒むということに触れながら小さな可愛い前置き(彼は我々を「逆シンデレラ」と呼んでいた)をしている。それにもかかわらず、本作の最初の1時間少々はまったく「踊りではない」ものだった。それは彼が8人のダンサーに踊らない動きを課していたという事実だけではない―私は、革新の名のもとにダンスという芸術の基礎に挑戦し、破壊していくコンテンポラリーダンス作品を数え切れないほど観てきたので、耐性はできていると思っていた。

違った。それは安っぽい音楽の繰り返しだった。『We Are the World』の二回はまだ耐えられるとしても、という意味である。これは熱烈でキッチュで叙事詩的な曲だから問題ない。だがしかし、1968年に発表された白人男性による耳にこびりついて離れないレゲエ気取りの音楽を10回繰り返すという行為は非人道的犯罪である。(批評家の)Mayoはビートルズの一切の楽曲を10年は聴かないと誓ったと言うが、今世紀いっぱい聴かなくていいだろう。

多田がこのダンス経験の破壊を、スペクタクルな要素を取り去ってしまうところまで推し進めなかったことに、実のところ、ある種の感謝の念を抱いている。なぜなら私は少なくともダンサー達が順序良く整理されたストレッチ運動をしている間、この8人を検証し続けることができたし、彼らと脳内boff/marry/killゲーム(女性3人を選んでセックスするか、結婚するか、殺すかを選ぶゲーム)で何度か遊べたからだ。照明デザイナーによる華麗な影遊びも、もちろん、楽しむことができた。

そして6回か7回目に差し掛かった時、ある種の諦念が芽生えた。この苦痛を、前衛的エンターテイメントとして受け入れるという諦めである。

それは『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』以外のなにものでもなかった。

そこには『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』しかなかった。

だがそこから生まれたのは…大切なものだった。ダンサーたちは立ちあがり、最終公演が終わった後の会話をもっともらしく演じる。疲労困憊、ビュッフェ形式のお祝い、クラブで踊ること、酔っ払い、シンガポールのアート・シーンの話題、彼らの生活のこと、もう二度と会えないこと(日本で再会するという虚の約束)、そしてその後、日本語バージョンの『Save the Last Dance for Me(ラストダンスは私に)』に合わせ、もう一度踊る…

(このあたりで私の記憶は一部空白になっている。)

その後、全くのディスコ・クラブ・ミュージックと共に最後の爆発が訪れる。本物のB-boyの動きや逆立ち、K-popダンスの動作などをちりばめながら、出演者は皆すっかり気が狂ったかのようになっていく。ことごとくあなたを拒んできた公演のクライマックスで、あなたはWow wowと歓喜の声をあげ、出演者は消耗しきって床に崩れ落ちていく…それは見事なスペクタクルだった。

そして出演者は立ちあがり、それを繰り返す。

そして出演者は立ちあがり、それを繰り返す。

見飽きることはなかった。部分的には曲(日本語なのでタイトルは知らない)が良かったからだし、部分的には出演者のファンキーな踊りの動きのためである。私は今や自分の半分の人生を知っているような気持になり、今や本作の根本的な部分を幾分か受け入れるようになってきている。

我々が実際に終わりとカーテンコールに達する前に、他の踊りは段階的に静かになっていった(私はTay Tongが拍手を始めるまで手を叩く勇気のなかった観客の一人である)。しかし、私が感動を覚えたのは、クライマックスの後に真のクライマックスが訪れるという構造的な経験のためではなかったと思う。そうではなく、出演者の人生を垣間見ることのできる、うっとりするほど素敵な窓のようなものがここに現れるという、その手法に感動したのだ。観客としての私たちが望むのは、最終版の美しい作品である。しかし現実に起こっていることは、ありふれた繰り返しに次ぐ繰り返し(フランス語でリハーサルを意味する語は繰り返し[repetition])、そして煮詰まらない状態のまま、動きを通すだけのパフォーマンスを求められる、ひどいテクリハ…

そして本番のときでさえ、あなたは持てる全てを差し出すことになる。

そして次の公演が始まると、あなたは再び全てを差し出すのだ。

これは多田が意図的に行っているのだろうか?おそらくそうだろう?インタビューで彼は集団自殺と東日本大震災か何かのことを語っていた…何か関連があるのだろうか?

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

そしてこの奇妙な、エンターテイメントの否定、からの成熟した最終部分は、あなたが払った金額の三倍の価値はある。観客を拷問にかけた上でやつらをぎゅっと抱きしめるようなものである(紋切り型の演劇的構造は唯一のクライマックスに集中していくため、時として男性中心主義と言われる。一方実験的な作品は複数のクライマックスによって女性的な快楽を模倣しているのかもしれない)。

私が言えることはこれですべてだ。このショーを、観られるもんなら観てみろ!



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