2018年4月20日金曜日

2017年京都公演レビュー|文:竹田真理

5年後の『RE/PLAY』を観て

竹田真理

『RE/PLAY Dance Edit』はWe Dance Kyoto 2012で初演された『RE/PLAY』から5年を経て、その内容も意味するところも大きな変化を見せている。

反復によって疲弊していくダンサーの身体がダンスの媒体たる身体そのものの他ならぬ事実性を突き付ける――演劇版「再/生」を受けてダンスバージョンとして作られた2012年の『RE/PLAY』では、演出家・多田淳之介の意図により楽曲が執拗に繰り返され、そのたびにダンサーたちはフルコーラス分のダンスを踊り、くたばって床に倒れ込む。ほどなくして再び音楽が鳴ると、起き上がり同じ振付を繰り返す。この反復のうちになるほど身体が疲労し消耗していく過程が主題として「描かれる」のではなく、むき出しの事実として露わになる。ところがほとんど悪意といえるほどの執拗さをもって彼ら彼女らをデッドエンドに追い込んでいこうとする演出家の意図に反し、鍛えられたダンサーの身体はむしろ疲労するほど強く抗い輝きを増していく。この演出家vs.ダンサーの支配と抵抗の構図がダンス版『RE/PLAY』の初演時のドラマトゥルギーを形成していた。


今回(2017年京都)の上演は、ダンサーたちを手のひらで玩ぶかにも思えた演出家の影はもはや感じられず、ダンサー自身によるダンスのための自律的なパフォーマンス空間へと変貌を遂げていた。舞台はダンサーが各々小さなポーズを示すことから始まる。細切れのポーズはさまざまな踊りや動作、身振りの欠片であり、出演のダンサー8人はフロア全体を移動しながら思い思いの場所で欠片を提示し、壊して床に崩れる。因みに、それぞれの欠片はどれも見る眼の快楽のツボを押す魅力あるフォルムになっていて、センスを感じさせて面白い。

音楽が「We are the World」から「オブラディ・オブラダ」へと変わるあたりから、身振りの欠片は少しずつ連続性のある動きへと展開していく。どうやらこの2017年バージョンはパフォーマンスの時間を通じて各々が自身のソロダンスを作りあげていく過程自体を作品化している。シンガポール、カンボジア、日本と国籍も異なるダンサーたちの伝統舞踊、ヒップホップ、バレエ、コンテンポラリーダンスとバラエティに富んだ出自の踊りが、様々な身振りやポーズ、踊りの欠片をちりばめ、紡ぎ合わせていく様子は、人間の身振り、踊りの素材など無限にあるのだという感慨をもたらす。背後のスクリーンには8人のシルエットが映り、「人類」の二文字が頭に浮かぶ。「ホモサピエンス=考える人」、「ホモルーデンス=遊戯する人」に倣って、人間を「身振りする人」と言ってみてはどうだろう。そんな考えのよぎる寿ぎの空間が繰り広げられている。

身振りとポーズが一連の振付として固定されてくるあたりから、踊りの場は次第に殺気立ってくる。いつ果てるとも知れないループの中で、ダンスが、ある内的なコントロールをはずし、ダレるどころか渾身の度を増し、狂気じみた輝きを放ち始める。民族舞踊の腰を落とした構え、三転倒立から回転するヒップホップの技、颯爽と駆け抜けるバレエ由来のステップ、対角線を進みながら繰り出す武道の足蹴り。各自の出自による身体言語が咲き誇るがごとく展開すると同時に、自らが振り付けたダンスに自らの身体を明け渡すという転倒した事態が到来し、歓喜と狂気がせめぎ合う超・祝祭的な舞踊空間が現出する。ダンス礼賛。これが2017年京都バージョンの結語だろう。これには今回出演のダンサーたちによるところが大きい。なかでも憔悴の先の虚空に向けて足蹴りを続ける今村達紀や、愉悦と諦念をまといつつ回転し続ける斉藤綾子の存在なくしてこの輝きはなかったと言える。反復が導く忘我のゾーンに嬉々として、いや「振り付けられて」身を投じながら、彼女ら彼らはデッドエンド=死へ向けて己が生の刹那を燃焼し尽くそうとする。


童話「赤い靴」を持ち出すまでもなく、ダンスの歓喜と死は裏腹であり、そこにダンス芸術の魅惑の本髄がある。人類が踊り始めて以来といってもいい普遍的な側面だ。では2010年代も後半の今日、ダンス礼賛を言うことの意味は何だろうか。

『RE/PLAY Dance Edit』はダンスを作るための一つのフォーマットであるといえる。個々の身体言語の欠片を採取し、反復を通じて各自のソロダンスを作りあげる。この形態を携えてゆくなら地上のどこでも「RE/PLAY」が上演でき、地上のあらゆるダンスを参加させることが可能になる。今後このプロダクションがそのように世界の様々な土地で実施されることは十分に想像可能である。先々の土地でそのたびごとにダンサーを募ることになるだろう。それはあるローカリティとコミュニティのもとに生き延びてきた舞踊文化を揺り起こし、普遍へと統合することでもあるだろう。

実際、京都での5年ぶりの上演は、カルチュラル・ダイバーシティという新しい価値によって特徴づけることができる。8人のダンサーは国籍も踊りの出自も様々で、多様性を絵にかいたような楽園的な舞踊空間に生きている。初演との大きな違いは何よりこの点だ。5年前の京都からアジアの舞踊家たちとのこのようなカジュアルかつフラットな装いのダンスプロダクションへの発展など予想だにしなかったが、これは他でもない、文化芸術分野でのグローバル化の進展の速さを物語っている。パンフレットには「アジアの今」とある。アジアのどのような状況を指しているかの具体的な言及はないが、このようにアジアの踊り手たちと共同する多様性へ開かれたダンスプロダクションに積極的な意味を見出そうとしていることは確かだろう。だがそれはローカルなシーンで育まれてきた身体と踊りにグローバルなダンス・マーケットへの参戦を余儀なくさせることであり、コンテンポラリーダンスの名の下、個々の尊重の装いのもとに固有の文脈を断片化し一元化することにもなりうる。

例えば私たちはすでに、ニム・ハオニェン演出のレクチャー・パフォーマンス『What Price Your Dance』(2016@ArtTheater dB Kobe)でアジアを席巻するグローバル資本主義の波に個々の舞踊文化がいかに抵抗しつつ折り合いをつけて生きるかの現実を見ているし、岩渕貞太『DISCO』(2017)が煽り立てる音楽=資本の誘惑・煽動に抗して踊らない身体という戦略で臨んだことも知っている。(因みに『DISCO』では多田淳之介が選曲を担当している。)こうした批評的な視点が既に差し出された後に、「アジアの今」の身体をもってこのプロダクションを「ダンス礼賛」に着地させてしまうとしたら、上演する側・見る側ともにナイーブと言わねばならないだろう。多様性の下にある身体に反復を強いるより大きな手のひらの存在を意識化するための、もう一段の手立てが欲しい。ここは演出家・多田淳之介の出番ではないか。

Photo by Kai Maetani

KAC Performing Arts Program 2017/ Contemporary Dance
2017年11月25日-26日/会場:京都芸術センター

Credit
演出:多田淳之介/振付・出演: きたまり、今村達紀、Sheriden Newman、Narim Nam、Chanborey Soy、Aokid、斉藤綾子、吉田 燦

舞台監督:浜村修司/照明:岩城 保/音響:椎名晃嗣(KWAT)/通訳:益田さち
プロデューサー:岡崎松恵
劇場制作:谷 竜一、堀越芽生子、奥村麻衣子、萩原麗子
フライヤー・ポスターデザイン:underson
記録:桜木美幸(映像)、前谷 開(写真)

共同主催:京都芸術センター、NPO法人Offsite Dance Project、RE/PLAY Dance Edit実行委員会
助成:国際交流基金アジアセンター、公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団

平成29年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業
共同製作:TheatreWorks、Amrita Performing Arts

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